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2005年1月

2005.01.18

台湾でipod shuffleの発売は二月上旬

 台湾でも、ようやくipod shuffleの発売日が決定。(Taiwan Cnet)価格は512MBが3600元、1GBが 5400元 。 発売されたら、すぐにでも直営店に行き、購入したいと思う。

 ipod shuffle自体は台湾企業ASUSが製造しているが、台湾国内でApple自体あまり人気が無いので、 発売は日本やアメリカに比べて、半月遅れとなった。

 実際、日本でipod miniが発売されたとき、applestoreに行列ができ、 台湾でも同じようなイベントを開催しようとした所、客がほとんど来ず来ず、結局、取材に来た記者たちが買っていった始末である。 (東森

 ただ台湾国内でMP3プレイヤー自体の需要は非常に高い。日本と違い、MDが普及しなかったため、携帯用プレイヤーとして、 すでに市民権を得ている。だが台湾では、ラジオやボイス録音がついている多機能なプレイヤーが好まれているため、台湾で、 日本のような人気が出るかどうか、わからない。

 しかし先日、Applestoreに行ったところ、多くの客が、フラッシュ型のipodはいつ発売するか、聞いていたので、 それなりの需要があることは間違いない。

 私の場合、ちょうど卒論のバックアップ用のフラッシュメモリーを買いたいと思っていたので(口実)、ぜひ買いたいと思っている。

 

2005.01.08

2005年の台湾政局

 正直言って、訳がわからない。

年末の立法議員選挙で、野党側の藍軍(国民党連合)が勝利し、2005年以降も陳水扁の少数政権が進むと思いきや、藍軍内の内紛で、 国民党と親民党の合併が怪しくなると、今度は与党の民進党と、野党側の親民党が連立政権をつくるのではないかという噂が出てきた。

 台政界傳出民親合作消息引發關注

 さらにそれを裏付けるかのように、先日、国民党の党資産処分に関する法案に対し、 民進党と親民党が共に議会の議案に組み込むことに賛成し、其の噂の信憑性を高めた。

 国民党は、戦後、台湾接収後、台湾に残された日本の資産を、本来ならば国の資産として、管理すべきだったのを、 その一部を党資産として接収したため、世界一資産を持つ政党となった。(最も李登輝後、野党に転落したため、党資産は目減りしている傾向で、 近年国民党は財政危機に直面している。)

 その党資産を、国に返還させようと法案に、国民党と合併を控えているはずの親民党も賛成したことにより、国民党、 親民党の合併に暗雲がさした。

 考えられることは、年末で議席を減らした親民党が、現状のまま、国民党と合併した場合、発言力を現在より減ることが考えられ、 政治的影響力を保つために、国民党から距離を保ち、民進党に近づいている。

 しかし問題は、両党の政治的アイデンティティが異なりすぎる。

民進党は新憲法を制定し、中華民国の台湾化を推し進めることを進め、将来的な台湾独立を目指しているといって過言はない。

一方、親民党は本々、反李登輝の国民党員が中心に成立した党。故に両岸問題的には、中国との対話を重視し、現時点でも、

  黨主席宋楚瑜不會對任何職位有興趣,但 但對兩岸問題有強烈使命感,若海峽兩岸和平促進法草案可以通過, 宋楚瑜不排除接任兩岸和平協商特別委員會召集人。 東森

中国台湾との対話の再開を望み、宋楚瑜は兩岸和平協商特別委員会の責任者になり、両岸問題の交渉に参与することを望んでいる。

 この点では、民進党の政策と全く異なる。しかし近日の新聞を読むと、両党連立を予測する記事が相次いでいる。 中国時報聯合報など。

 国民党の党首連戦が合併の際、リーダーシップをとることができず、選挙前に合併することができず、結局、 現在も親民党に翻弄され続け、ろくな対策を打つことができないことを見ると、本当に連戦は政治家として、無能だと言う他に無い気がする。

2005.01.05

辜一族と台湾近代史

辜振甫が2005年1月3日死去した。享年87歳。

 辜振甫は、1993年、海峡両岸関係協会の汪道涵とシンガポールで会談、両岸が分割統治されるようになって以来、 双方が初めて接触した歴史的な会談で台湾側代表として参加したことで知られている。

 また1995年11月、1996年11月および1997年11月、APEC会議では、台湾側代表として参加している。90年代、 台湾の経済外交において、大きな役割を果たした。

辜家は台湾でもっとも著名な望族の一つ。辜家一族の繁栄は、日本の台湾統治の開始と共に始まる。

 1895年、日清戦争の結果、台湾が日本に割譲された当時、辜振甫の父、辜顯榮は彰化鹿港の一商人に過ぎなかった。彼にとって、 大きなターニングポイントは日本軍の台北進軍だった。当時、台北城内の清朝、台湾民主国の正規兵はすでに逃走し、城内は混乱していた。 それゆえ辜顯榮は、日本軍と折衝し、台北城まで案内し、無血入城する代わりに、日本は台北の治安維持する確約を得た。

 このことによって、辜顯榮は日本の信認を獲て、繁栄の契機となった。辜顯榮は英源茶行を買収し、大和商行に改名した。その後、 日本の総督府政府より、樟脳、製塩、アヘン、タバコなど専売販売の特権を獲得し、財産を築く。

 辜顯榮は専売で獲た利益で土地投資を行った。二林、鹿港などの土地を購入し、塩田の開墾以外に、甘蔗畑に開墾をし、 同時に製糖工場を建設した。

 1920年代、台湾議会設置請願運動が盛んになった際でも、辜顯榮は総督府政府を支持し、御用商人を忠実に演じた。総督府は 「台湾総督府評議会」を設置し、辜顯榮はそのメンバーの一人に選ばれた。「台湾総督府評議会」は 「総督府の監督に属し其の諮問に応じ意見を開陳す」に過ぎず、実質何の権力を持たない機関だった。

 また台湾自治要求運動に対抗して、辜顯榮は講演会を開き、日本の植民地支配を擁護した。講演会で、辜顯榮は 「むしろ太平の犬になっても、乱世の民にならず」と主張し、本島人の反感を買った。

 

 辜顯榮は台湾総督府評議会議員以外に台中廳參事、日日新報社董事、總督府評議員、貴族院議員等重職を兼任した。  辜顯榮は1937年東京で死去した。

 辜顯榮の死去した時、彼の五男辜振甫は二十歳で、台北帝国大学(現在の台湾大学)に在学中で、政治学を学んでいた。 辜顯榮は辜振甫を辜家の相続者として、エリート教育を施していた。辜振甫は父の死去のため、一時休学し、 辜振甫は莫大な遺産と7会社の董事長の地位を引き継いだ。

 だが1940年に台北帝国大学を卒業した後、辜家の事業と財産の管理を兄弟に任せ、自身は東京帝国大学に入学し、 財政と工商管理を学び、いかに家業の事業を発展すべきか学んだ。

 1945年8月15日、日本は終戦を迎えた。終戦の翌日、辜振甫は許丙、林熊祥ら台湾人有力者と共に、安藤利吉総督に会見し、 台湾独立の可能性を探り、総督府政府の支持を求めた。だが安藤総督は辜振甫らの要求に対して、「諸君が進める台湾独立の陳情は理解する。 しかし世界の大局から見て、諸君にこの行動を一刻もやめるように勧める」と拒否した。いわゆる「8.15の独立運動」である。

 この事件は、国民党が台湾を光復(台湾の主権を回復)した時、知ることになり、懲役二年を処せられた。

 この事件は後に中宮陸軍少佐、牧澤陸軍少佐ら日本軍参謀が主導したという説が一般的である。<伊藤潔、戴國煇など>

 許丙の長男・許伯延は、許丙は独立運動に関与したことを否定している。回想録(中央研究院近代歷史研究所)で、

 

 陳儀台湾行政長官が1934年福建省主席の頃、林熊祥から資金を調達した。その後、陳儀が契約どおり返済しないため、 林熊祥は何度も返済を催促し、日本領事に訴え、返済を強要したことがあった。陳儀が台湾行政長官に就任後、林熊祥に報復するため、 独立運動の参与を口実に拘束し、辜振甫、許丙らはそのとばっちりを受けて逮捕された

と主張している。

 だが<台湾処分一九四五年>を執筆した鈴木茂男がこの運動に直接関与した牧澤氏、安藤氏<戦後当時、 陸軍少佐>両名に質問したところ、両人とも、軍が台湾独立運動を主導したことを否定し、台湾独立は当時の辜振甫らが求めたと主張している。

 この事件の真実はどうだったのか議論があるところだが、事件の当事者である辜振甫はその後、この事件に言及することがなく、 真相はわからない。しかしこの独立運動に参加した理由により、逮捕され、辜振甫は禁固2年2ヶ月の刑に処され、その後、 一時的に香港へ避難した。

この事件後、辜振甫は国民党政権に前面的に協力し、国民党との関係を修復し、再び政商の地位を得ることになる。 台湾に支持地盤を持たない国民党にとっても、政権の安定のためには、有力財閥の支持は欠かせないものだったと言える。

 1952年、国民党は土地改革を実行した。国民党は地主から土地を購入し、それを小作農に転売し、自作農の育成を努めた。 この土地改革により、国民党は農民の支持を得て、政権の安定化に成功した。この土地改革に多くの地主は反対した。 しかし辜家は台湾で三番目に土地を有する大地主だったが、国民党の土地改革を積極的に支持し、辜家の土地と塩田を国民党に引渡した。 その功績によって、辜振甫は台湾セメント、台紙、農林と工礦の株を獲得し、そもそも財政的基盤を農業に置いていた辜家が、 工商界のトップに変わるきっかけとなった。

 1954年、台湾セメントが民間に払い下げられると、辜振甫は台湾セメントの社長に就任し、その後台湾セメントグループは、 台湾の高度成長に伴い、台湾を代表する大企業へと発展させた。 辜振甫が極めて有能な経営者であったことは疑いない。  

 その後、1966年4月、中華證券投資公司を設立し、金融界にも発展を求めた。1971年、中華證券投資公司は「中國信託投資公司」 へと改名し、現在台湾で最も大きい信託会社へと発展した。現在「中國信託投資公司」は、彼の甥である辜濂松が経営している。

辜家は台湾の五大財閥(國泰蔡家、和信辜家、台塑王家、新光吳家、遠東徐家) の一つに発展した。

 辜振甫は「8.15の独立運動」後から、国民党を支持し、彼の系列企業の繁栄は政府との密着による部分が大きい。それ故彼は常に 「政商」と呼ばれた。李登輝が台湾総統に就任後、 90年代から、経済外交、特に両岸との交渉にも、大きく携わるようになった。

 辜振甫が香港訪問中、ある著名な占い師に彼の事業について占ってもらった。占い師は辜振甫に 「あなたに両岸問題解決の未来が任される。」と伝えた。その直後、台湾の対中国窓口機関のトップである海峡交流基金会(海基会) の理事長に就任し、実際に両岸問題の台湾側責任者に任命された。この時の驚きを後にマスコミのインタビュー中に話している。 李登輝が彼を台湾側責任者に任命した理由は、彼自身の優れた知識のほかに、京劇など中華文化に造詣が深く、 中国政権側にとっても話しやすい相手であり、その一方で本省人で、台湾に不利な条件は受け入れないという考えがあったからだといわれる。

 1993年、海峡両岸関係協会の汪道涵とシンガポールで会談し、「一個中國,各自表述」の共同認識を打ち立てた。最もこの会議後、 中国はこの会議で<一個中國>を認めたと主張し、台湾側が<一個中國,各自表述>の共同認識に達したのみであると異なる主張し、結局、 双方の対立を解決することはできなかった。

 李登輝が二国論を掲げ、台中間の対立が深くなった時、辜振甫は談話を発表し、両岸との交渉の重要性を主張したが、 大きな影響を与えることはできなかった。

 その後、辜振甫は李登輝から距離を置き、身体を壊したこともあり、双方政権と距離を持つようになった。

 辜振甫には異母兄弟の辜寬敏がいる。台湾独立運動のリーダーの一人である。去年10月4でも日、 ニューヨークタイムズとワシントンポストに、アメリカが一つの中国の政策を変更するように呼びかける一面広告を出し、台湾政界、 アメリカ政界を驚かせた。<自由時報

 辜寬敏は戦後、独立運動を推進した「台湾青年会」の委員長を務め、国民党が独裁政権を敷いていた時、海外に数十年滞在した。 その後も国民党独裁を非難する《臺灣春秋》、《黑白新聞週刊》などの雜誌を創設し、台湾独立運動の長老である、 台湾を代表する財界人となった辜振甫とは全く異なる人生を歩んだ。ちなみに彼の息子は 野村総研の主席研究員  リチャード・クー (辜朝明)である。

 辜振甫は、辜寬敏が病の見舞いに来た時、独立運動家の弟に向かい、「台湾は絶対に中国に飲み込まれてはいけない、 国内は絶対に分裂してはいけない、もし団結できなければ、中国とアメリカに立ち向かうことはできな い。」と伝えたという。 <ETtoday>

 

 陳水扁が中華民国総統に就任した後、政権とは距離を置く辜振甫と異なり、總統府資政(高級顧問)に就任し、 陳水扁を支えるアドバイザーの一人になった。辜家と政権との蜜月はまだ終わっていない。

辜振甫と辜寬敏 2001年、総統府で行われた双十国慶節の祝賀式典

中国新華社 の吳谷豐が李登輝訪日に関する記事

 說漢語很不情願——近距離看李登輝媚日之旅

 先日、エントリーを書いた 新華社 の吳谷豐が李登輝訪日に関する記事を発表した。 記事の詳細は朝日新聞でも、 李登輝氏訪日 「日本に媚びる旅」 中国紙が「密着ルポ」で紹介されている 。

1ページすべてを使った記事で、日本各地での李氏の様子を描写。李氏が「台湾万歳」というかけ声に迎えられ、記者団に 「西田幾多郎氏の哲学と思想が台湾の新たな国づくりにとても役立つ」と発言した、などと批判的に報じている。

 また、流暢(りゅうちょう)に日本語を操る李氏を「自分がどの国の人間か忘れたようだ」と皮肉ったうえで 「日本人になりたくて仕方がないのだ」と結論づけた。

 中国政府は、李氏が日本で政治的な言動をしないかを注視していた。同紙の報道ぶりからは、李氏の行動について、 中国側が突出して問題視する部分を見いだせていないこともうかがえる。

 この記事からもわかるように、李登輝は今回の旅行中、メディアに対し、終始距離を保ち、 発言を極力抑えていたため、、中国側が日本を直接非難する理由を見つけられないようである。

 また、この記事からわかるように、中国人にとって、「親日」とは、「売国奴」と同義語であるということである。 李登輝は学生時代、日本の教育を受け、日本に留学した経験を持つため、日本語を話せるのは当然である。 また李登輝世代の台湾人知識人にとって、日本語を使うことは必須だった。先日死去した辜振甫も、 非常に洗練された日本語を使えたことは有名である。

 中国政府が李登輝と日本のつながりに対して、激しい嫌悪感を示すのは、李登輝訪日前に主張した 「李登輝は台湾独立運動のリーダー」 新華網 と見ている他に、李登輝が持つ親日感情だということを新華社の吳が書いた記事に明確に現れている。 李登輝が流暢に日本語を話すだけで、日本に媚びていると非難している。

 今日の 毎日新聞の記事にも、 書かれているが、

いまでも中国の人から頻繁に受ける質問がある。 「日本はどうして、 過去の侵略戦争の歴史を謝罪しないのですか」

 中国人は今でも日本人は中国人に対し、過去の謝罪しなければならないと考えている。これは政府、 一般庶民共通の概念だと思う。中国人にとって、戦前の日本は肯定することが許されない歴史だと考えている。 だが李登輝は戦前日本が行った台湾の植民地支配を肯定すべき点では肯定している。

 今回の金沢訪問中、 八田与一の功績を残した「ふるさと偉人館」 を訪問し、さらに八田氏の子息に会いに行ったことからも明らかだと思う。

 八田与一は、当時東洋で最大規模の烏山頭ダムを計画し、 台湾農業の発展に多大な貢献をした。日本が植民地時代に行った近代化の代表的な例だと思う。台湾の民主化に伴い、台湾国内でも、 八田与一も近年、再評価され、日本植民地時代の見直しが行われている。

 一方中国では愛国心教育のため、日本の過去を否定する歴史教育を、さらに推し進め、日本を否定している。

新華社 の吳谷豐の記事がそのことを物語っている。

 もう一言、付け加えれば、中国人はよく日本人に向かって「日本人は歴史から何も学んでいない」と非難するが、

 この50年間中国は、チベットを侵略し、虐殺を行い、文革では文化遺産の破壊と虐殺を繰り返し、 80年以降も天安門事件や法輪功の弾圧し、今でも政府に反対する人間を逮捕、虐待している国家の人から、「日本は歴史を直視せず、 何も学んでいない。と言われも、何ら説得力がない。

 少なくとも、日本は戦前の失敗の反省から、民主化を進め、言論の自由も保障されているし、 少なからずとも政府を非難しても、それが原因で逮捕されることはない。また日本も竹島や北方4島の領有権問題が存在しているが、 それを武力で解決しようと

 切込隊長は 日本は中国になめられているのではないだろうかと言っているが、

 ここ数年私は台湾にいるため、あまり大陸出身の人間と直接話すことはないが、昔中国人と議論していて、 日本人をなめている以前に、「日本人は歴史を学んでいない」という概念を純粋に信じきっている人間も非常に多いように思える。   

 中国人の反日思想の原因を考えていると 中国人が持つ中華思想や華夷思想などと密接に関係しているように思える。

那波利貞氏は、

 中華思想の主な要素が、支那は世界の中心地なりと謂ふ地理的なものと、支那は世界に於ける文化の中心なりと謂ふ文化的なものと、 支那君主は王道政治を以て世界萬邦に君臨しその徳澤は世界の隅々にまで光被せること日輪の遍ねく照らすが如きものなりと謂ふ政治的のものとの三者なる結果は、 其の發するや極端に相背馳する二方面の傾向を有することとなつた。一は極端なる保守排外の傾向にして一は極端なる開放博愛の傾向である。

 要するに、過去の日本と中国の戦争は、中国側が何がともあれ勝利したことによって、中国側が正統、正義だと信じきっている、 さらに先に述べた中華思想と重なって日本に対する憎悪が積み重なっているようにも思える。

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