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2007.07.16

馬英九は国民党の職業学生だったのか

 台湾で、戒厳令が敷かれていた当時、台湾独立運動、民主運動の中心は、日本やアメリカに置かれ、当時の台湾人留学生らがその運動の先頭に立った。

 こうした海外の反体制運動に対し、国民党は職業学生と呼ばれる国民党の支援を受けた学生を派遣し、それら反体制運動を監視させた。そして彼らの通知によって、多くの運動家がブラックリストに記され、パスポートを取り消されたり、場合によっては強制送還されるなどの憂き目に遭っている。

《新台灣》週刊第590期に馬英九がその職業学生の一員だったかどうか、考察した文章が掲載され、南方快報にその文章が掲載されていた。戒厳令時期、国民党政府がどのように海外の留学生、民主運動を監視していたのか、その実態の一部を紹介し、馬英九もその一員だったかどうか分析している。

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 謝志偉が馬英九が職業学生の一人だったという発言に対し、 馬英九が謝志偉を名誉毀損で訴えたため、馬英九が職業学生だったかどうかか、再び注目されるようになっている。

 馬英九は戒厳令時代、アメリカのハーバード大学に留学していて、国民党の中山奨学金を受け、国民党海工会に属す「ボストン通信」雑誌の主任を務め、「ボストン通信」は「中華青年聯誼会」など国民党に属する機構を基礎として、国民党の海外留学生を監視する役割を果たしていた。

  当時、馬英九と同時期のアメリカのニューヨーク、ボストン一体に留学していた学生で、そのその被害者も少なくない、職業学生の密告によって、ブラックリストに掲載された被害者は、今でも馬英九の当時の行動を証言している。

 戒厳令が敷かれていた時期、職業学生によって、学校内で引き起こされた白色テロは、かつて海外に留学していた反体制運動家にとって、忘れることができない共通の記憶になっている。父親が軍情局に勤めていた左派学者の夏鑄九も、職業学生の密告によって、一度パスポートを取り消されたことがあった。

 1980年前後、馬英九と同時期ハーバード大学に留学し、現在、謝長廷の選挙総幹事長を務める李應元、当時、同様の被害者の一人で、長年、ブラックリストに載せられ、帰国することができなかった。

 そのため、馬英九はかつて職業学生だったのではと疑われたのは一度や二度ではない。李應元を含め、副総統呂秀蓮など、多くの民主運動家がかつて、馬英九はかつて職業学生で、ブラックリストを国民政府に提出していたと指摘している。

 さらに馬英九は1978年、ボストンで中壢事件の抗議デモを起こっている最中、カメラを持ち、証拠写真を撮影していた。その時の様子が「黨外人士後援會」が編集した《全美抗議選舉不公、反對政治迫害示威遊行紀錄》に掲載され、その中では「馬英九」が「馬英久」と誤植され、掲載され、その説明文に「蒋一族の特務である馬英久が、群衆に追われ、逃げているところ」と書かれている。

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抗議集会の写真を撮っているのを、デモ隊に見つかり、逃げるところの馬英九

  また2006年6月の《傳記文學》雑誌の中で、馬英九は当時革命実践研究院に参加していたときの様子を回顧し「70年3月、ニューヨークで実習後、台湾独立暴行の策略に関する研究の命令を受け、そして余った時間を利用し、資料を収集し、『恐怖主義と台湾独立運動』という論文を作成し、「内容が精確で、証拠も十分である」ため、海工会の推奨を獲得したと回顧している。

 また同文には「愛国活動に費やした時間は3年前後で、アメリカに滞在していた半分の時間で当たる」、その理由は「中山奨学金を受け、アメリカ留学したため、国民党と国家に率先して報いる必要があった」、「党と国家に対する服務を催促され、断る訳なかった」と回顧している。

 では馬英九は「誰の命令を受けて」台湾独立運動の暴行の研究を行ったのか、「恐怖主義と台湾独立運動」の英文論文をどこの部門に送り、アメリカで運用されたのか。また彼が言う「愛国運動」とは一体なにか。「党と国家に対する服務」とは一体どんな仕事だったのか。そしてなぜ台湾帰国後、公職試験を受けず、総統府第一局副局長と蒋経国の英語翻訳の職に就くことができたのか。

 事実上、《ボストン通信》の本質は国民党の海外職業学生の大本営で、関中、馬英九、趙少康などは、論文を投稿し、少なからずの利益を得ていた。今も馬英九と関係の深い関中は、当為、ボストン職業学生の地下リーダー的存在で、馬英九の上司に当たる。また《ボストン通信》には多くの反民主の文章が掲載され、美麗島事件が起きた際では、雑誌内で、美麗島事件の被告を非難し、重刑を行うように主張した。そして馬英九がその時の《ボストン通信》の総編集者だった

 戒厳令解除について、馬英九は1979年《ボストン通信》内で、即刻の戒厳令解除に反対する姿勢を示すm一方で政府は戒厳令関連の法令を見直し、人権保障の増加と、軍事管制の縮小の原則を政府に呼びかけた。

 戒厳令が解かれ20周年を迎える今でも、馬英九今年3月31日、国民党選挙で行われた「擁蔣遊行」で、228事件、白色テロ、長期にわたる戒厳令などは、「蔣総統が判断して、発生した小さな問題」に過ぎないと発言し、陳水扁が国民党に対し、戒厳令38年の責任を負うべきだという発言に対し、馬英九は戒厳令は中国の脅威のためであると擁護している。

謝志偉も台湾の戒厳令38年、解除後20年、被害者は未だ傷を負っている、それに対し、加害者はどこにいるのだろうか。当時、国民党に服務していた人たちは、後悔していなくても構わない。しかしその代償を負うべきだ、歴史がもしも真相が明らかにならなければ、台湾の人民は和解することはできないと発言している。

参照元:http://www.southnews.com.tw/polit/ma_in_9/00/00240.htm 

(摘錄自《新台灣》週刊第590期,標題為本報修改。)

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